アリシアは、その言葉を聞いて胸につかえたものが取れたような感覚があった。ヴィクターを疑ってはいたが、その反面、信じたいという気持ちがあったのも事実だ。 ヴィクターが自らの意思で悪事に手を染めるような人間ではないことは、誰よりも理解している。 常に誰かの影に身を置き、必要とされれば動く。だが、それ以上のことを求められたとき、ヴィクターは一歩、身を引く男だった。度胸が無いとも言えるが、そこまでの悪人とは言えない。「利用された」──ヴィクターの言葉には妙な説得力があった。 てっきり、人が変わってしまったのかと思っていた。けれど、今こうして話すヴィクターには、かつての面影が確かに残っている。 祭りの日、リノアに取った行動に対しての、後悔している。という発言も、あながち嘘ではないだろう。「まったく……俺は必死で手伝ってたのにさ」 ヴィクターが口をつぐみ、森の冷えた空気を思い出すように目を細める。「リノアを探しているのは、俺だけだと思ってた。けど違ったんだ」 声には熱がこもり始めていた。押し殺していた悔しさが、言葉に染み出す。「きっとリノアの情報を引き出すために接触してきたんだろうな。リノアがどこに行ったのか、何をしに行ったのか。そんなこと訊かれても俺に分かるわけがねえよ。俺だってリノアを探してたのに……」 拳がゆるく握られる。それは怒りよりも、悔しさに近かった。「なのにさ。森の中で泥だらけになって、言われた通りに手伝って……。使えないと思った途端に、あっさり切り捨てやがってよ」 アリシアはヴィクターを黙ったまま見つめた。 ヴィクターは何かを失いながらも、誰かの役に立ちたいという一心で動いたのだ。 勇気を振り絞って踏み出した先で、知らず知らずのうちに誰かの思惑に絡め取られていた。それでも、ヴィクターは信じるものに向かって動いた。 そんなヴィクターを責め立てるわけにはいかない。 海風が吹き抜けるなか、場の空気はなお重たく沈んでいる。 そんな沈黙に、セラがそっと咳払いをひとつ落とす。「あの……探してたのって、本当に鉱石なんですか?」 セラの声は重く垂れ込めた空気に細い切れ目を入れるように慎重だった。「ああ、そうだと思うが……」 ヴィクターは沈黙の淵から視線を持ち上げ、セラを見る。 少し間を置いてから、セラが踏み込むように続けた。「
他にも動いている人たちがいる? アリシアのヴィクターに向ける視線には怒りも非難もない。言葉の裏にある真実を探るような確かな意志が込められている。 一言ごとに距離を測るように思考を深めるその様子は、揺るぎない芯を持った者の姿だった。 アリシアはその言葉を反芻しながら、ヴィクターを見据えた。「その人たちって誰なの?」 アリシアは唇をきつく閉じたままのヴィクターの顔を、じっと見つめた。 言葉を待つ間も、アリシアの視線は揺らがない。 それは問いを投げたというより、答えを引き出す意志そのものだった。「ヴィクター、本当は知っているんじゃないの? 正直に話して」 アリシアの瞳がヴィクターを射抜く。「ちょっと、待ってくれよ。俺は詳しくは知らないんだ。一度だけ、グレタが誰かと話しているのを見ただけで……」 言い訳のように紡がれた言葉は、かえって何かを隠しているように見えた。「それはどこで?」 声に怒気はない。だが問いは鋭く、ヴィクターに逃げ道を与えない。「酒場だ。街の真ん中にある店で、まるで何も隠す気がないように会っていたよ」 ヴィクターの口調は淡々としている。「相手は軍人でも商人でもなかった。何か……もっと違う雰囲気だった」 アリシアが、ちらりとセラへ視線を送る。「私がクローブ村の近くで見た人たちも、そんな感じだったかな。黒いマントを着ていたと思う」 そう言って、セラは苦い顔をした。「ということは──連中はこの事態に、裏から関わってるってことになるよね?」 アリシアは再びヴィクターに向き直る。 アリシアの問いは鋭く、沈黙を許さないものだった。 ヴィクターが答えかねて口をつぐむ中、波音が静かに会話の間を埋めていった。 海岸に面した街の空気は、塩を含んだ湿気で肌にまとわりつくような重さを持っている。 沖合では、かつて漁師たちの目印だった灯台が、いまや色褪せた鋼鉄の影として佇んでいる。 浜辺には焦げたような油膜をまとう漂着物が増え、潮の満ち引きと共に、異臭と腐食の気配が運ばれていた。 気象記録員の報告に、「水質成分の異常」「海流の変調」「毒素の蓄積による魚種の激減」が並んでいたことを思い出す。 それは排水による汚染。そして原因不明の発光を伴う藻の異常繁殖といったものだった。人為的な搾取の影響によるものだ。「夜になると波が引いてい
遠ざかっていく水音の中、リノアは、その場に立ち尽くしていた。 霧に紛れて消えた二人を呆然と見送る。 森の深みへ消えていった女性。 間違いなく、あの人は…… 言葉にならない想いが喉に詰まる。「リノア、油断しないで。まだ何体か残ってる」 エレナの声が背後から届いた。 霧の陰で動く影。 ひとつ、またひとつ──散らばる影が音もなく足元へ迫る。 エレナは指を弦に掛けた。 視界の外縁に残る敵の動きが、風の揺らぎに微かに浮き上がる。「残ってるのは、三体。数が減ってる。私たちの攻撃が効いているのかもしれない」 エレナは冷静に言った。 この場に居るのは、わずか三つの気配だけ。目の前にいる二体、そして森の中に潜む一体だ。 先ほどまでの統率は、もうなさそうだ。殺気も薄れ、動きも、どことなく遅くなっている。 それでも油断はできない。 散った獣ほど不規則に動き、深く食い込んでくるものだ。この者たちも例外ではない。「あいつ逃げる気なのかな」 リノアは森の中へ引き返す一体を目にして言った。「そう見えるね。あれがこの群れを操っていたリーダーなのかも。多分、人間よ」 エレナが答える。「あとは任せて、私一人で大丈夫」 そう言って、エレナが敵を見据え、そっと矢筒に手を伸ばした。 足元に目をやり、湿った地表に狙いを定める。矢が放たれ、雷光石が地を這った。 バチン! 閃光とともに電流が地表を這い、一体が足を取られて崩れる。 エレナは短弓に持ち替えると、眉ひとつ動かさず連射した。 矢が斜め下から心臓部と思しき位置へ次々と打ち込まれていく。 三本目が着弾した瞬間、二体目が呻きながら膝をついた。「さて、最後の一体……」 茂みの奥、逃げる人影が一瞬だけ姿を見せた。 砕けた鎧の隙間から覗く、細身の輪郭。揺れる布が風に翻る。「やっぱり人間だ……」 リノアが呟く。 エレナは頷いたが弓を下ろさなかった。 エレナの指先が最後の矢へと滑る。 羽根の根元には鈴のような装飾──小さな銀の球が一つ付けられている。『風語の鈴』 狩人たちが眠りのために用いる、静かで優しい凶器だ。「それ効くの?」 リノアが問う。「分かんない。取りあえず使ってみる。効果を発動させるには衝撃が必要と言ってたっけ? ちょっと遠いけど、風に乗れば届くでしょ」 エレナは弓を引い
エレナは深く息を吸い、弓を横に掲げた。 その瞬間── 五つの矢が閃光のごとく疾走した。 雷光石を仕込んだ矢の先端が青白い光を放ち、凍てつく光が上空を蜘蛛の巣のように覆う。 敵兵の一人が足を止め、思わず空を見上げた。 肌を刺す静電気に、一瞬、たじろぐ。 霧の向こう、空には雷の網。青白く脈打つ光の糸が天空を覆っていた。 雷群が天空から舞い降り、霧の帳を鋭く裂きながら地表を突き刺す。 声をあげる間もない。 敵が叫ぶよりも早く、雷光の矢が炸裂した。 地鳴りが響き渡り、視界の端が明滅する。 一体、二体、三体── 稲妻に包まれた影が次々と膝をついていく。 視界はなお揺らめき、雷の残響が空間を歪める中、霧の奥で、ひとすじの疾光が駆け抜けていった。「一人、逃げた!」 リノアは言うと同時に氷壁の裏から飛び出した。 手には凍結の晶核。 走りながら晶核に指を這わせる。──間に合うだろうか? 足音が地面を打つたび、不安が胸を叩く。 剣を構えた男が一歩踏み込み、右腕をゆるやかに引いた。 肩が回転し、剣先が弧を描く。 照準は前方を走る女性と子ども── 霧の中、剣の輪郭だけが銀色に光り、呼吸と共に筋肉が軋む。 男の筋肉が一気に収縮した瞬間、腕が旋回し、銀の剣が空を切り裂いた。 投擲された剣が唸りを上げ、霧を突き破っていく。 風鳴りが一拍、遅れて走り、剣が鋭い軌道で滑走した。 狙いは寸分の狂いもない。 向かう先は女性の背中だ。「──させないっ!」 焦燥が喉元まで迫る中、リノアは凍結の晶核の表面を指先で裂いた。 形が崩れると同時に、飛沫のように散った氷粒が前方へ勢いよく放たれる。──お願い、間に合って。 空気を裂く音と共に氷粒は螺旋を描きながら疾走し、霧を穿つように前方へ突き進む。 リノアの手から放たれた氷の障壁が剣の軌道に割って入った。 氷塊が一瞬で拡大し、空間を覆う。 ドン! 投擲された剣が氷壁に直撃し、爆ぜるような衝撃が辺りに走った。 断ち切られた力の余波に、女性と子どもが身体をぐらつかせる。 足元の斜面が崩れ、氷の残滓と共に二人は雪崩のように滑り落ちていった。 枝を掠め、岩肌を擦るように滑りながら、身体は翻りつつ斜面を落ちていく。 そして── 水音が緋色の静寂を破った。 冷たく澄んだ川の水が、二人を抱え
霧の帳を引き裂くように、甲高い叫びが響き渡った。 幼い声──震えるほどの恐怖がこもっている。 リノアは反射的に振り向いた。 霧の向こうからだ。 その声が、まるで胸を素手で掴まれるようにリノアを揺さぶった。 それは助けを呼ぶ声。 命が砕ける寸前の、魂の叫びだった。──絶対に守らなければならない。 リノアはエレナに目で合図し、二人は霧の中を滑るように突き進んだ。 霧の奥からは物音ひとつ聞こえない。 走りながら、リノアは周囲に目を走らせた。 先ほど仕留めた兵は霧の深みに沈んだはずだ。だが、それ以降の動きが見えない──静かすぎる。 敵が私たちに気づかれないように回り込んだのだろうか。 この濃霧では、視覚も聴覚も当てにならない。足音も気配も簡単に塗り潰される。それが分かっているなら、回り込むのは比較的たやすい。 背後にはエレナがいる──その確信を意識の奥に留めながら、前だけを見つめる。 ぴたりと息の合った動き── 互いの沈黙が、研ぎ澄まされた共通意志となって霧を裂いていく。 木々の隙間を駆け抜けた刹那、視界の端に、きらりと小さな光が閃いた。 霧が風に揺れ、茂みの奥で葉擦れの音がひとつ。 遠く、霧の切れ目に二つの人影。 女性が小さな子を抱きかかえ、転びそうな足取りで必死に逃げている。 その子の小さな手に、星型のペンダント── 霧の中で淡く光りながら、揺れている。 あれは── 母の形見と同じ形。 私が持っているものに似ている……「危ないっ!」 エレナの声が霧の中を裂いた。 前方の二人が振り返る間もなく、子どもが女性の服にしがみつく。 その瞬間──霧の向こうで何かが動いた。 木々のざわめきの向こうから、重く、不規則な足音が這い寄ってくる。 一体、何人いるのか。いや、何体と言うべきか……。実体が怪しい影が幾つかある。 リノアとエレナは息を合わせるように霧の中を駆け抜け、素早く人影の前に立ちはだかった。──なんとしてでも、二人を逃がさなければ。「敵が来る! リノア、援護して!」 エレナの声に反応したリノアは、腰袋に入った凍結の晶核に触れた。 微かな振動が空気を震わせ、氷の粒が花のように広がる──瞬く間に、半透明の氷壁が立ち上がった。 その隙を逃さず、エレナは横へ回り込み、茂みの奥へと身を滑らせて弓を構えた。
「ヴィクター、一つ訊いていい? 何でグレタと一緒にいたの?」 優しげな視線に潜む鋭さが、ヴィクターの心を突き刺すように走り、ためらいを問答無用で断ち切る。 ヴィクターはすぐには答えなかった。 その沈黙が、かえってヴィクターの動揺を際立たせる。「……騙されたんだ。あいつはグリモアでも異変が起きてると言って近づいてきた。リノアならそれを止められるって。だから……俺、協力するしかないと思ったんだ」 海鳴りが断続的に響く中、ヴィクターの声が波間に沈むように響いた。その声は途切れ途切れで弱々しい。 アリシアは、その言葉にすぐに反応できなかった。 海鳴りの合間に思考の波が打ち寄せる。 グレタの意図は何なのか、いまいち見えてこない。「それで、ヴィクターは何をしたの?」 疚しいことをしていないなら、逃げる必要なんてないはずだ。 ヴィクターは沈黙の中、視線をゆっくりと落とした。 そして何かを確かめるように間を置き、絞り出すように言葉を紡ぐ。「グレタたちは森で何かを探してたんだ。自然保護の調査だとか言って……」「それって、探していたのは鉱石ですか?」 セラが不意に割り込んだ。「どうして、それを……?」 ヴィクターは驚きのあまり、声を失い、思わず息を止めた。視線がセラに釘付けになる。 動きかけた手が止まり、まるで心の奥にしまっていた記憶が不意に引きずり出されたようだった。「わたし、クローブ村の近くで青白い光を見たことがあるんです。地面の割れ目から浮かぶ怪しげな光でした」 セラは一歩踏み出すように身を前へ傾け、そっと言葉を紡いだ。指先が無意識に袖を握りしめている。「崖崩れが起きた時なんて、土の色が変わってた。木々も不自然に枯れていたし」 セラの声が空気に染み渡るように響くと、ヴィクターの顔色がさっと変わった。心の奥を急に照らされたように、視線が彷徨う。「知らなかったんだ。森を壊すことになるなんて、思ってもみなかった。気づいた時には……すでに、自分の手で多くを傷つけてしまってた。何も知らずに……」 声がかすかに揺れる。後悔が言葉の端々から溢れていた。「だけど、クローブ村の近くで起きた件と崖崩れは俺じゃない。あの場所には、俺は関わってない」 ヴィクターの声が波音に飲み込まれるたび、か細く震えて戻ってくる。 アリシアはゆっくりと視線をヴィク